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Top> 日大を作った先人たち> 水野 錬太郎 人物名: 水野 錬太郎 山田 顕義 宮﨑 道三郎 金子 堅太郎 松岡 康毅 山岡 萬之助 松波 仁一郎 荒川 五郎 額田 豊 平沼 騏一郎 戸水 寛人 澤野 民治 佐藤 運雄 木村 秀政 佐野 利器 圓谷 弘 松原 寛 渡邊 徹 加納 金助 加藤 一雄 會田 範治 山野井 亀五郎 鎌田 彦一 呉 文炳 古田 重二良 1868年生〜1949年没 日本大学理工学部は、令和2(2020)年に創設100周年を迎えます。大正9(1920)年に日本大学で最初の理系教育機関として発足し、総合大学化への先駆けとなった高等工学校、そこから発展した工学部(現理工学部)。その初代校長・学部長として創設に尽力した佐野利器については、この先人たちのページで取り上げました。※佐野利器のページはこちらそこで今回は、大正から昭和初期にかけて日本大学理事を務め、高等工学校の創立を後押しし、工学部の設立に力添えした、水野錬太郎を取り上げます。 水野錬太郎は、9月には明治へと改元する慶応4(1868)年1月10日、江戸の秋田藩邸で生まれました。父立三郎は秋田藩の江戸詰の藩士でしたが、明治になり、支藩の岩崎藩に仕え岩崎(現秋田県湯沢市岩崎)に移りました。しかし、廃藩置県により藩主が東京に移住したため、明治7(1874)年、水野家も東京に戻りました。 水野は、西洋化の時代、これまでの漢学だけではなく、英語や数学もしっかり学ばなければならないとの思いから、高橋是清(後に大蔵大臣・総理大臣)が校長を務める共立学校(現開成中学校・高等学校)に入学し、英語は高橋から直接習いました。 第一高等中学校時代(左) 『水野博士古稀記念論策と随筆』より 共立学校は、東京大学予備門の予備校として知られ、同じ頃、秋山真之(後に海軍中将)や正岡子規(俳人)も学んでいました。明治17年、水野は、彼らと同様に東京大学予備門を受験し、117人中3番の成績で合格、同期生には夏目漱石(小説家)もいました。入学後の19年、東京大学は帝国大学、予備門は第一高等中学校に改組されました。 予備門に入ったものの、大学で具体的に何を学ぶかは決めてはおらず、海に囲まれた日本の発展には船が重要と考え、造船学を専攻とするため、本科では工科を志望することとしました。工科では図面やデッサンなど図画の才能が必要とされましたが、水野は不得手であったため断念し、法科に進みました。第一高等中学校英法科を首席で卒業、帝国大学法科大学法律学科第一部(英法)に進学し、明治25年7月、やはり首席で卒業しました。法律学科第二部(仏法)の首席は、後に首相となる若槻礼次郎でした。 明治26年頃の帝国大学法科大学 (国立国会図書館所蔵) 渋沢栄一(国立国会図書館所蔵) 帝国大学の卒業生は、官吏(国家公務員)の道に進むのが一般的でした※1が、法科大学教授の穂積陳重に、民間に優秀な人材がいないので、企業で働くことを勧められ、渋沢栄一を紹介されました。渋沢は、「日本近代経済の父」と称され、令和6年に切り替わる1万円札の肖像に決まり話題となっている人物ですが、この時は第一国立銀行※2頭取で東京商業会議所会頭も務めていました。 渋沢との面談の結果、第一国立銀行に入行し、銀行以外にも、東京商業会議所などの業務に携わりました。当時、商法・民法の施行が検討されていたため、週1~2回、東京商業会議所で法律の講義も頼まれ、渋沢をはじめとする、実業界の錚々たる人物たちを前に話をしました。ところが、1年もたたない明治26年6月、法律の専門家を必要していた農商務省に誘われ、試補として入省することとなりました。 ※1 法科大学の同期生70人の進路は、官吏44人・公立学校教員2人・大学院3人・会社員6人・代言人7人・その他8人。 ※2 明治5(1872)年公布の国立銀行条例により、翌6年に設立された日本最初の銀行。条例立案に当たった渋沢栄一が大蔵省を退官し、総監(最高責任者)となった。国立の名を冠しているが株式会社である。明治29年、一般銀行の第一銀行に改組。 明治末年の第一銀行『東京名勝図絵(再販)』より この頃、帝国大学法科大学教授で和仏法律学校(現法政大学)学監の梅謙次郎に依頼されて、注釈書『破産法綱要』を著しました。さらに梅の依頼で、法科大学で破産法の講義を持ち、東京専門学校(現早稲田大学)・獨逸学協会学校(現獨協大学)・専修学校(現専修大学)・日本法律学校など私学でも講師を務めました。日本法律学校では、明治26年9月から商法を担当しました。 水野は、退庁後夜中の0時~1時頃まで講義準備に費やしました。自伝の中で、雑務は部下に任せられる行政官と異なり、自ら調査研究し、常に新知識を吸収し、講義の数倍時間をかけて下準備をしなければならない大学教授には、敬意を払わなければならないと述べています。明治27年5月、入省から1年も経ずして内務省に参事官として招聘されました。農商務次官だった金子堅太郎は、水野の転出を非常に惜しみました。内務次官は、前年、金子退任の後に第2代日本法律学校長となっていた松岡康毅で、日本大学との不思議な縁といえます。 内務省では地方自治に関する法制度を担当しました。明治30年には、著作権法の調査研究のため、ヨーロッパ各国への出張を命じられました。帰国後は著作権法案の作成にとりかかり、帝国議会の承認を得て32年に公布されました※3。その後も、著作権法の専門家として研究を重ね、36年には法学博士の学位を授与されました。 最初の内務大臣時代(大正7年)『水野博士古稀記念論策と随筆』より 明治37年には勅任官の神社局長に就任、43年土木局長となり、翌年地方局長も兼務しました。大正元(1912)年、内務大臣原敬の推薦で貴族院議員に勅選され(任期は終身)、内務省を辞職しました。 第1次山本権兵衛内閣で内務次官を務めた後の大正3年5月、日本大学理事に就任、昭和8(1933)年まで19年間在任します。学長は松岡康毅、補佐役の学監は司法省参事官の山岡萬之助でした。7年4月には、寺内正毅内閣の内務大臣となりました。 ※3 「著作権」に該当する言葉は当時の日本語にはなく、この法案作成の過程で考え出された用語である。 大正8年、東京帝国大学工学部教授佐野利器は、工学教育充実のため、中等教育を終えて働いている技術者が理論を学べる、夜間2年制の高等工学校の設立を提案しましたが、政府には予算がありませんでした。 日本大学で理系教育機関の設置を企図していた山岡萬之助(大正6年1月理事)は、佐野を校長に迎えての学校設立を図ります。佐野は多忙もあって乗り気ではありませんでしたが、面識のある水野が校長就任を強く勧めたこともあって承諾し、9年6月、日本大学高等工学校が設置されました。 水野は大正10年代、内務大臣を2回務めます。13年には、関東大震災後に設置の帝都復興院総裁を一時兼務しました。同院建築局長は佐野が務め、この時期巣立っていた高等工学校卒業生が、復興事業で活躍しました こうした状況から、日本大学では高等工学校とは別に工学部を設立すべきとの機運が高まり、文部省に設置を申請しました。時の文部大臣は水野だったため折衝は順調に進み、昭和3年4月に認可を受けました。 日本大学高等工学校創立十周年記念絵葉書(駿河台校舎新旧写真) 日本大学卒業生への揮毫「内正其心外修其行」(大正8年冬)『高等師範部修身法制経済科卒業アルバム』より 前へ 日大を作った先人たち一覧へ 次へ トップ このサイトについて Copyright 2015 Nihon University all rights reserved.

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